『井田真木子著作撰集』を年表から読む

書評をするつもりで、里山社から出た『井田真木子著作撰集』を、三つの長編ノンフィクションだけでなく短編、エッセイ、そして初期の詩篇もふくめ隅々まで読んだ。そうしたら、書評には書けないけれど、存外だいじなことに気づいたので、ここにメモとして書くことにする。

2014-08-16 11.27.32

この本のみどころの一つは、巻末付録である。とくに年表が面白い。井田真木子は若くしてまずは「詩人」としてデビューし、二冊の詩集を残している。大学卒業後は、早川書房に入社。しかも編集ではなく、最初は受付、つぎが経理、その後に校正である。彼女はわずか2年で早川書房を退職するのだけれど、在籍中に(おそらく最後に)校正した本に、ドミニク・ラピエールとラリー・コリンズのノンフィクション『さもなくば喪服を』があった(この本との出会いの経緯は彼女の未完の遺作『かくしてバンドは鳴りやまず』に詳しい)。

井田真木子が早川書房に入社しようとした理由が、ミステリでもSFでもなく、すぐれた海外ノンフィクションの版元だったことにあったのか、それとも、たまたまもぐりこんだ版元でノンフィクションに出会ったのかといえば、おそらくそれは前者だろう。井田は『かくして〜』の冒頭で、十五歳のときに出会った、「『私』の本」としか呼びようのない本について書いている。それは当時は「ルポルタージュ」とか「実話物」と呼ばれたジャンルの本であり、小説ではなかったという。当時はこのほかに「記録文学」という言い方もあったはずだが、あえて「文学」の名を彼女は退けている。とにかく、いまでいう「ノンフィクション」である。

つまりすでに「詩人」であった若き日の井田真木子は、「文学(フィクション)」ではなく「ノンフィクション」を書き手として、あるいは生きていくための道として選び、その手段として早川書房に、まんまと入社したということになる。

そして十分に出版界の内情を知り得た後は、フリーランスの物書きとして野に下る。24歳。最初の仕事は雑誌「微笑」の記者。ノンフィクション作家の修行にはうってつけだろう。

1981年、まだバブル景気と呼ばれる時代ではないが、「雑誌の時代」とは言われていた頃、井田は早くも、雑誌記者(フリーライター)で食べていくことに限界を感じ(多いときは月に59本も書いていたという!)、「三年間で一冊のペースで本を書いて生計を立てる」という計画を考える。25歳のときである。

その後の井田は、ほぼこの計画通りに生きた。

1988年、ノンフィクションの処女作として『温泉芸者一代記 芸妓・おかめさんの話』をかのう書房から刊行。これは企画もふくめて版元のすすめによるものだったが、この縁で彼女の実質的のデビュー作『プロレス少女伝説』が同じかのう書房から出版される。1990年、井田真木子は34歳。けっして早いデビューではないが、女子プロレスの取材は1983年から続けていた。いうなれば構想7年、である。この作品が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、彼女は新進ノンフィクション作家として、これ以上ということのない船出を果たす。しかも幸か不幸か、バブル経済はまだ崩壊していない。

井田の三作目『小蓮(シャオレン)の恋人 新日本人としての残留孤児二世』の刊行は1992年。この作品で講談社ノンフィクション賞を受賞。一般的に「バブル崩壊」と呼ばれるのはこの年である。

四作目の『同性愛者たち』の刊行は1994年だが、これの取材には3年を費やしており、さらに1997年の文庫化のおりには大幅に加筆している。第五作『旬の自画像』の刊行は1995年だが、大幅に加筆した文庫版『フォーカスな人たち』の刊行は2001年。第六作『いつまでも取れない免許』第七作『十四歳 見失う親 消える子供たち』はともに1998年。2001年に井田は亡くなり、未完の遺作となった第八作『かくしてバンドは鳴りやまず』は2002年に刊行される。

わずか8冊にすぎない井田の著作は、
『温泉芸者一代記』(1988)
『プロレス少女伝説』(1990)★
『小蓮の恋人』(1992)★
『同性愛者たち』(1994、文庫は1997)★
『旬の自画像』(1995、文庫は2001)
『いつまでも取れない免許』(1998)
『十四歳』(1998、文庫は2002)★
『かくしてバンドは鳴りやまず』(2002)
と並ぶ。

このうち★をつけたものが井田の主著の系列をなすとすると、執筆以前の取材期間や文庫化にあたっての追加取材・加筆もふくめれば、井田が律儀に、ほぼ「三年間で一冊のペースで本を書いて生計を立てる」という方針を守ろうとしたことがわかる。というより、長編ノンフィクションは最低でもその程度時間を書けなければ書けないはずだ。

皮肉なことに、井田真木子のノンフィクション作家としてのデビューは、日本の出版ビジネスの「よかった時期」の最後の日々にあたった。彼女の作品の多くは雑誌連載をベースにしており、しかも初期作品の二つが大きなノンフィクションの賞を相次いで受賞し、主著はいずれも文庫化されている。それでも彼女が「物書き」をやっていくには、原稿料と印税と賞の賞金だけではとても足りなかったようだ。それはそうだろう。足りるはずがない。

この撰集の巻末に寄稿している関川夏央は、井田のこんなエッセイの記述を書き留めている。

「初版一万部では、まずまともな市民生活は送れません」
「書けば書くほど貧乏になる」

そして関川は、これでさえ今は贅沢な悩みで、いまは「誰であれ初版4000部がせいぜい、多くの場合は不採算が明白だから出版してもらえない」と書いている。

それでも井田真木子は「三年間で一冊のペースで本を書いて生計を立てる」というペースを崩さなかった。いや、それ以上に一冊ごとの本に心血を注いだ。彼女がなぜそうしたのか、その理由はこの「撰集」を読めば明らかだ。だがそのおかげで、いま読み返しても、この本に収められた文章のなかに、彼女の「心血」は脈打っている。

井田真木子という人は、特異ではあるが、きわめて才能があり(しかもその才能は早々に認められた)、仕事の手を抜かない努力家だったようだ。彼女は19歳で「詩人」になり、32歳で「プロの作家」となり、44歳で亡くなった。この本の巻末に収められた短い年表によって浮かび上がるその歳月は、私自身が出版業界に身を置いていた時期と、ほとんど重なる。

この本がいま、生前の井田を直接には知らない世代の編集者によって、ふたたび世に問われなければならなかったことの意味がわかる気がする。

…というわけで、これから書くべき書評よりもオマケのほうがすっかり長くなりましたが、31日にこんなトークイベントがあるようです。

http://nishiogi-bookmark.org/2014/nbm79/

第79回西荻ブックマーク

井田真木子 著作撰集「リアリティとは生きた証」~『井田真木子著作撰集』刊行記念トークショー

出演/北沢夏音・北條一浩・清田麻衣子

日時:2014年8月31日(日)
17:00~19:00(開場16:30)
会場:今野スタジオマーレ
定員:30名
料金:1500円

絲山秋子『忘れられたワルツ』書評

普通の人々の、平凡な暮らしを小説に描くことは難しい。英語なら「コモンピープル」で済むが、そのような「普通の人」を意味する日本語(庶民、市民、国民など)は、どれも独特の意味がまとわりついてしまい、現実にいる人々のリアリティをすくいとることができない。

絲山秋子はこれまで、「働く人々」をしばしば描いてきた。階級としての「労働者」という意味ではなく、恋愛や自分探しにかまける時間的余裕もなく、生きるためにまずは働かなければならない人たち。社会の大半を占めながら、だれにも代表されず言葉も与えられていない人たち。都会だけでなく、地方都市にも田舎にもいるそんな人々の姿を描きつつ、あの「震災」後に流れ続ける奇妙な時間の肌触りを、この短篇集はみごとに表現している。

被災地が舞台だというわけでもないし、真正面から震災を描いているわけでもない。だが震災と原発事故は、この国に住む大半の人がそうだったように、直撃を受けた者以外にも多くの人の感覚を狂わせた。「強震モニタ走馬燈」のように、震災という出来事を直ちに連想させる作品もなかにはあるが、大半の作品で、震災はささいなエピソードに寄せて触れられる。しかし作品集として通読することで、強いリアリティが立ち上がる。

なかでも「なにも変わらないようにみえるが、以前の生活には決して戻れない」という含意が込められた「NR」の不気味さが際立つ。「神」は無力だが、それでも「普通の人々」にいつも寄り添っている、との祈りが込められた「増田喜十郎」もよい。もしかするとこの増田は、ネット用語の「アノニマス(匿名の人)」の意味かもしれない、と思いながら読んだ。

高橋源一郎『恋する原発』書評

「3・11以後、小説を書くことは困難になったか?」。この問いへの答え如何で作家の文学観がわかる――そんな時代になってしまった。

いわゆる「自然主義リアリズム」の立場をとるなら、あの事件以後、小説に描かれる具体的な場所や時間に、言外の意味が生ずることを認めざるを得ない。こうした創作上の制約から逃れたければ、「なにごとも起きなかった世界」を舞台に、説得力をもって物語を紡がなければならない。東日本大震災はこの難問を作家たちに突きつけた。

そんな理由から、日本のポストモダン文学の牽引者であるこの作家が東日本大震災の後にいったいどのような小説を書くのかを、とても楽しみにしていた。

『恋する原発』は、作中に登場する被災地へのチャリティー用アダルトヴィデオの題名である。「チャリティーとAVをいかにして両立させるか」に懊悩する監督イシカワを語り手に、ミュージカル調のAVのメイキング・オブという体裁で物語は進む。その過程でイシカワの上司である社長、会長、そしてイシカワ本人の個人史におけるトラウマと性的な趣味嗜好との関わりが明かされる。性(生)と死という重いテーマが軽やかに描かれ、デビュー作に対して当時吉本隆明が「ポップ文学」という言葉で賞賛した美質がラジカルに突き詰められている。

作品の終盤に文芸評論を模した章が唐突に差し挟まれる。この中で「ぼくはこの日をずっと待っていたんだ」と語ったとされる「ある人」と同様に、この作家もまた、今回の震災によって「書くこと」の困難ではなく、その積極的な意味を見出した一人だろう。現実に起きた出来事から文学表現の自律性を守りつつ、現実の出来事からも決して目を背けないというアクロバットをやってのけた本作は、 デビュー三十年の記念作にふさわしい、文句なしの「ポップ文学」の傑作である。

いとうせいこう『想像ラジオ』書評

町を見下ろす小山に生えた高い杉の木の頂点に、仰向けに引っかかったまま首を仰け反らせ、町を逆さまに見ている男がいる。

赤いヤッケを着たその男は、ノアの「方舟」にちなんだDJアークという名を持ち、聴き手の想像力のなかでオンエアされるラジオ番組を、「あの日」以来、木の上から送り続けている。なぜ、彼はそのような場所にいるのか——。

男は「あの日」の記憶をすっかり失っているが、リスナーたちとの交信によって、欠落は少しずつ埋められていく。不特定多数のリスナーと交信をしつつも、彼には本当に語りかけたい相手がいる。だがその相手に声はまだ届いていない。

いとうせいこうの16年ぶりの小説作品である本書は、このように始まる。本作では「ラジオ」として表現されているが、いとうが震災後に実際にツイッター上で行った、「想像上の曲をかけるDJプレイ」の体験が色濃く反映されている。しかしこの小説は、その行為を単純に物語に落とし込んだものではない。

かつてジョン・レノンが「想像せよ(イマジン)」と歌ったとき、既成観念を脱ぎ捨てた先にたち現れる、平明でクリアな世界がユートビアとして想定されていた。つまり「想像」には、基本的に正の価値が付与されていた。だが東日本大震災を経て、「想像」の意味は大きく変質してしまった。あるいはここで、アドルノの有名な「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という言葉を連想する人もいるかもしれない。

DJアークの視点で語られる奇数章の間に、作家Sの視点からなる偶数章が差し挟まれ、第二章でSはボランティア活動のために入った別々の被災地で、「樹上の人」の存在を知らされる。だが視覚的なイメージこそ強く喚起されるものの、その「声」は、Sにはまったく聞こえてこない。

被災者の現実には、傍観者にはけっして「想像しえないこと」あるいは「想像すべきでないこと」が存在する。それでもなお、小説家が想像力によって作品を生み出そうとするなら、そのことの根拠が問われざるをえない。そのことに本書の作者は自覚的である。

第二章で被災地でのボランティア活動からの帰途、Sに同行した一人の青年は、死者をめぐる心の領域に部外者が踏み込む「甘い想像」は傲慢だと語る。他方、別の青年は死者の声に耳を澄ますことは誰も禁止できない、と反論する。この問答における後者の立場こそ、「あの日」以後にフィクションを書くうえで、いとう自身が逡巡の末に選び取った倫理なのだ。

古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』書評

「閉じ込められている」という感覚と、だからこそ「たえず移動する」ということ。あえて個々の作品名を挙げるまでもなく、この二つの要素が古川日出男という作家と作品を付き動かしてきた。

いつでもどこへでも自由に行けるのならば、そもそも「移動」する必要などない。古川日出男において移動はノマド的なものというより、結果的にそのような移動が必然であったことがいつか証明されるような、いわば決定論のもとで行われるアクションである。狗塚牛一郎・羊二郎という異形の兄弟を主人公に、そのような意味での「閉塞」と「移動」を、東北六県という(一種の観念的な)宇宙を舞台に描いたのが、『聖家族』という、いま思えばきわめて異様な作品だった。

平成二三年三月一一日に起きた東日本大震災は、この物語の舞台を、外部にいるものにとっては「立ち入ることができない場所」、中にいる者にとっては「とどまることが許されない場所」へと暴力的に反転した。『聖家族』という作品世界を生み出してしまった古川日出男にとって、震災が自然災害や社会的事件として巨大であったのみならず、自身の文学の根幹にかかわる巨きな事件だったことは想像に難くない。

あらためて思い起こそう。『聖家族』で狗塚牛一郎・羊二郎の兄弟が最後にたどり着いた場所はどこだったか。その場所は福島県の浜通り、相馬市のコンビニエンスストアだった。福島第一原子力発電所を中心とする同心円の、立ち入りを禁じられた「閉域」の中心部にできるだけ近づくこと。「そこへ行け」という内なる声に導かれて、作家は行動する。だが古川日出男は、被災地の惨状を目撃し、そのことを「書く」ためにそこへ行ったのではない。むしろそれは、自らも被災しなければならないという、自己処罰的なアクションだったと告白する。そしてそれが、結局は形を変えた自己憐憫でしかないことをも、骨の随から承知している。だから、いくら本人がそう語ろうと「真実」はそこにはない。

狗塚兄弟による東北六県めぐりを福島県で終わらせたことの責任、しかもそのデッドエンドの場所を(白河の関でも勿来の関ではなく)、思いがけずも正しく相馬に位置づけてしまったことへの責任意識こそが、この作家を現実世界での行動に駆り立てた最大のものだろう。だとすれば、古川日出男がその場所へ行くことを決めた動機は、多くのジャーナリスト(もしかしたら作家とも)とは正反対だったことになる。

三月一一日、この作家は取材のため京都にいたという。東京を舞台とする一連の(その名を挙げればきわめて長いリストになる)作品群と、東北を舞台に複数作を大伽藍へと組み上げた(その意味でもメガノベルと呼ばれるべき)『聖家族』に拮抗する第三の作品(『ドッグマザー』と、その題名まで決まっていた)を生み出すことが、震災以前、この作家にとって最大のプロジェクトだったから。震災をうけて、このプロジェクトは直ちに中断される。震災後、古川は「何を書くか」ではなく、「何は書かれるべきではないか」を考えた。そして、そこからあらためて、かわりにいま書かれるべき言葉とは何かを徹底的に考えた。本書がそのように書かれたテキストであることを、一瞬でも忘れてはならない。

だからこそ、この記録は、「その日」からは書き起こされない。「その日」以来、作家は”神隠しの時間”のなかにいたという。空間的にではなく、時間的な意味で「閉じ込められていた」のだ、と。”神隠しの時間”という「閉域」のなかで、時間的に行きつ戻りつした(装丁に穿たれたナンバリングはその「動き」を示している)作家の行動記録という意味で、本書の前半は「ノンフィクション」——「小説(フィクション)」ならざる散文——だといっていい。もちろん古川日出男には、すでに『ノン+フィクション』という「作品」がある。『ドッグマザー』のプロジェクトを中断し(それは放擲されたわけではないだろう)、リハビリテーションとして、あるいは迂回路としてこの本が書かれた理由のひとつに、『ノン+フィクション』という「作品」を書くことで古川日出男が獲得した、ひそかな自信がなかったとは思えない。

小説家にとって——というより「生み出されてしまった小説」にとって、といったほうが正確だが——「事実」と「フィクション」との間にある境など、いつでも踏み越えるられるものだ。ただしそれは、小説家という存在においては、倫理上、「こちら側からあちら側に向かって」ではなく、「あちら側からこちら側に向けて」踏み破られるべきだ。なぜなら作家が最終的に責任をもつべきは、現実の社会に対してではなく、生み出した作品とその世界に対してだから。

あちら側からこちら側へと荒々しく踏み越えてくるもの、場合によっては逃れてくるものさえを受け止めること。作家自身がそのことを受け入れた結果、この本は、小説を書くことを断念した小説家の”神隠しの時間”における焦燥を綴った「ノンフィクション」から、ただ「小説」としか名付けようのないものへと変容する。『聖家族』のなかで、「あの場所」において異界に消え去った狗塚牛一郎が、「ノンフィクション」として書かれてきたはずの散文に介入し、自らの物語を語りはじめるのも、そのように考えればごく当然のことなのだ。

震災という過酷な現実を前に、文学にいったいなにができるか、などという虚偽の問いは、この散文のなかでは一切問われない。その答えは自明だからだ。もしそうでなかったら、古川日出男はこの文章で動物たちについてここまで書いたはずがない。絶対にそれを「読む」ことがないはずの対象——イヌ、ネコ、ウシ、ヒツジ、ウマ、そしてあらゆる種族の死者たち——に向けて、この本に収められた文章は書かれている。
(2400字)