日本語の小説でいかに世界にアクセスするか

明日(17日)の夜に、久しぶりに日本の現代小説について人前で話をする機会があるので、すでにフェイスブックにいったん書き込んだ文章を少しアレンジして、そこで話してみようと思っていることを書くことにする。

まず、明日のイベントはこれです。

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詳細はこちらを参照。https://www.facebook.com/events/1521263458088036/
また座席の予約はこちらから。

以下、まずはフェイスブックで書いたことをそのまま転載しておく。

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さて、スコットランド独立が果たして成立するやいなや、という歴史的瞬間まであと数日ですが、それと微妙に関係するようなしないような「日本語」と「小説」をめぐるトークイベントを、明日の夜にB&Bで行います。

お話の相手は、小説家の桜井鈴茂さん(『アレルヤ』『終わりまであとどれくらいだろう』『女たち』『冬の旅』そして新作『どうしてこんなところに※作品一覧はこちら)と、批評家の陣野俊史さん(『戦争へ、文学へ』『フランス暴動〜移民法とラップ・フランセ』『ヒップホップ・ジャパン』ほか。twitterのアカウントはこちら)。僕も久しぶりに文芸評論家として話をします(こちらの方面の著書は『極西文学論 Westway to the World』ほか)。

さて、なんでスコットランド独立と明日のトークが関連するかといえば、話題が「日本語小説」だからです。これは「日本文学」という一般的な表現への抵抗なんですが、より具体的には、水村美苗の『日本語が亡びるとき』という「愚書」(だと私は思います)が提起した、「このままでは美しい日本語の文学が亡びてしまう」というテーゼにたいして、いやいやそうじゃないだろう、ということを話してみたいわけです(ちなみに水村氏はこの愚書で、アイルランド語とアイルランド国民に対してきわめてひどいことを書いていますので、ぜひお読みください)。

いわゆるこれまで言われてきた「日本文学」ではない「日本語による小説」が呼吸をし、葉を広げていける空間が、じつは存在しているのにもかかわらず、それが見えないことになっているのがいちばんの問題なんじゃないか、その「見えない場所」こそが、世界のリアリティに接続しているんじゃないか、という桜井さんとの雑談(知り合ってからずーっとこの話ばかりしてきた気がします)が、このイベントのもとになっています。

……というわけでこのイベント、まだ残席ございますので、登壇する三人の読者の方はもちろん、それ以外にも、スコットランド独立や水村美苗『日本語が亡びるとき』や「日本語小説」という言い方に少しでも関心のある方は、ぜひ足をお運びください。あと、音楽が好きな人も!

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ここまでがフェイスブックに書いたことなのだが、これだけだとなんのことやら、という人もいるだろうから補足する。

陣野俊史さんとのご縁は、ずいぶん前にまだ早稲田大学の文学部が一文・二文と名乗っていた頃に、彼が講義にゲストで呼んでくれたことがある。たぶん私が文芸評論をいちばんマメにやっていた2000年代半ばぐらいのことだと思うが、そのあとはずっとご無沙汰していたので、久しぶりにお会いして話をしてみたかった。

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陣野さんは集英社が刊行した『戦争✕文学』という大きなアンソロジーの別巻に「冷戦の終結と新たな戦争の時代 」という論考を書いており、また近著に『戦争へ、文学へ』という本もある(申し訳ないが未読! ※ここに著者インタビューあり)。戦争というのはまさに国家がその荒々しい姿をいちばんあらわにする瞬間だから、「戦争と文学」の関係は「国家と文学」の関係ということになる。陣野さんとはとくに、東日本大震災後に小説をどう読んだか、という話をしてみたい。震災は戦争と同じではないが、かなり同じ問題を共有しているはずだし、私も昨年に「震災後文学」について、少し考える機会があったので。

桜井鈴茂さんとは、吉祥寺に「百年」という本屋さんができたとき、そこでのトークイベントの第一弾として話をするという機会をいただいた(「百年」のウェブサイトに、『どうしてこんなところに』をめぐる桜井さんへの長いインタビュー記事あり。必読)。また上に紹介した水村美苗『日本語が亡びるとき』の問題は「百年」で桜井さんが文芸評論家の石川忠司とやった対談(短篇集『女たち』のとき。私も見に行った)でも話題になり、以来桜井さんと会うたびにその話になる。なので、一度公開の場所で思い切って話題にしてみようじゃないか、という感じにいつしかなっていたのだった。

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水村氏の件の本での主張はごちゃごちゃしてるのだが、とにかく現代日本の小説(およびその日本語)は「幼稚」で、現代の日本語は漱石鴎外の時代にくらべて劣化している。悲しいことだが英語が(かつてのラテン語のような)「普遍語」として世界で流通する時代に、知的な営為は英語でなされるしかないだろう。しかし「文学」だけは、「日本語でなされる領域」として守りたい、ああそれなのに、いまの日本文学の惨状たるや!……といった悲憤慷慨がひたすら綴られる。こまかい論旨にいくらでも穴があるので、発売当時はいろいろ批判をしたのだが、いまとなってはそれはもういい(ちなみに水村氏のこの本、冒頭のライター・イン・レジデンスでの話はだけはよかった)。

問題は、なぜ現代の日本の小説の大半が、彼女にとっては「幼稚」に見えてしまうのか、ということだ(ちなみに同書で彼女はその固有名を挙げていないが、村上春樹が念頭に置かれていることは間違いない)。なぜなら、それは近代以後の「日本文学」を大事にしてきた人たちの多くが、多かれ少なかれ、どこかで抱いている感想に違いないから。

にもかかわらず、というか、その一方で、きわめて少数の読者に向けた、ポストモダン文学の洗礼を受けてきわめてソフィスティケートされた表現(メタフィクションだったり、批評的だったり)としての「現代文学」があり、またそれらと同時に、さらにエンタメ・ミステリ・ラノベ・歴史小説といった大衆的な読み物の隆盛がある。そして、これらの読者の相互乗り入れはほとんどなされていない。

ということは、それを阻害するとてつもない「空白」というか、いまだ描かれてないリアリティのようなものがあるのではないか。つまり、日本語の小説は、なにかとてつもなく大きなものを描きそこねているのではないか、ということなのだ。桜井鈴茂の書く小説は、その巨大な「空白」という、「こんなところ」にぽつんと置かれている。そんな気がしている。

この感じ方が正しいのかどうかを、明日は桜井さんと陣野さんと三人で話してみたい。

最後に拙著の宣伝も。そろそろ次の本を書かなくちゃならないので、明日はその刺激をお二人から受けたいと思っています。

kyokusei

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