絲山秋子『忘れられたワルツ』書評

普通の人々の、平凡な暮らしを小説に描くことは難しい。英語なら「コモンピープル」で済むが、そのような「普通の人」を意味する日本語(庶民、市民、国民など)は、どれも独特の意味がまとわりついてしまい、現実にいる人々のリアリティをすくいとることができない。

絲山秋子はこれまで、「働く人々」をしばしば描いてきた。階級としての「労働者」という意味ではなく、恋愛や自分探しにかまける時間的余裕もなく、生きるためにまずは働かなければならない人たち。社会の大半を占めながら、だれにも代表されず言葉も与えられていない人たち。都会だけでなく、地方都市にも田舎にもいるそんな人々の姿を描きつつ、あの「震災」後に流れ続ける奇妙な時間の肌触りを、この短篇集はみごとに表現している。

被災地が舞台だというわけでもないし、真正面から震災を描いているわけでもない。だが震災と原発事故は、この国に住む大半の人がそうだったように、直撃を受けた者以外にも多くの人の感覚を狂わせた。「強震モニタ走馬燈」のように、震災という出来事を直ちに連想させる作品もなかにはあるが、大半の作品で、震災はささいなエピソードに寄せて触れられる。しかし作品集として通読することで、強いリアリティが立ち上がる。

なかでも「なにも変わらないようにみえるが、以前の生活には決して戻れない」という含意が込められた「NR」の不気味さが際立つ。「神」は無力だが、それでも「普通の人々」にいつも寄り添っている、との祈りが込められた「増田喜十郎」もよい。もしかするとこの増田は、ネット用語の「アノニマス(匿名の人)」の意味かもしれない、と思いながら読んだ。

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