古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』書評

「閉じ込められている」という感覚と、だからこそ「たえず移動する」ということ。あえて個々の作品名を挙げるまでもなく、この二つの要素が古川日出男という作家と作品を付き動かしてきた。

いつでもどこへでも自由に行けるのならば、そもそも「移動」する必要などない。古川日出男において移動はノマド的なものというより、結果的にそのような移動が必然であったことがいつか証明されるような、いわば決定論のもとで行われるアクションである。狗塚牛一郎・羊二郎という異形の兄弟を主人公に、そのような意味での「閉塞」と「移動」を、東北六県という(一種の観念的な)宇宙を舞台に描いたのが、『聖家族』という、いま思えばきわめて異様な作品だった。

平成二三年三月一一日に起きた東日本大震災は、この物語の舞台を、外部にいるものにとっては「立ち入ることができない場所」、中にいる者にとっては「とどまることが許されない場所」へと暴力的に反転した。『聖家族』という作品世界を生み出してしまった古川日出男にとって、震災が自然災害や社会的事件として巨大であったのみならず、自身の文学の根幹にかかわる巨きな事件だったことは想像に難くない。

あらためて思い起こそう。『聖家族』で狗塚牛一郎・羊二郎の兄弟が最後にたどり着いた場所はどこだったか。その場所は福島県の浜通り、相馬市のコンビニエンスストアだった。福島第一原子力発電所を中心とする同心円の、立ち入りを禁じられた「閉域」の中心部にできるだけ近づくこと。「そこへ行け」という内なる声に導かれて、作家は行動する。だが古川日出男は、被災地の惨状を目撃し、そのことを「書く」ためにそこへ行ったのではない。むしろそれは、自らも被災しなければならないという、自己処罰的なアクションだったと告白する。そしてそれが、結局は形を変えた自己憐憫でしかないことをも、骨の随から承知している。だから、いくら本人がそう語ろうと「真実」はそこにはない。

狗塚兄弟による東北六県めぐりを福島県で終わらせたことの責任、しかもそのデッドエンドの場所を(白河の関でも勿来の関ではなく)、思いがけずも正しく相馬に位置づけてしまったことへの責任意識こそが、この作家を現実世界での行動に駆り立てた最大のものだろう。だとすれば、古川日出男がその場所へ行くことを決めた動機は、多くのジャーナリスト(もしかしたら作家とも)とは正反対だったことになる。

三月一一日、この作家は取材のため京都にいたという。東京を舞台とする一連の(その名を挙げればきわめて長いリストになる)作品群と、東北を舞台に複数作を大伽藍へと組み上げた(その意味でもメガノベルと呼ばれるべき)『聖家族』に拮抗する第三の作品(『ドッグマザー』と、その題名まで決まっていた)を生み出すことが、震災以前、この作家にとって最大のプロジェクトだったから。震災をうけて、このプロジェクトは直ちに中断される。震災後、古川は「何を書くか」ではなく、「何は書かれるべきではないか」を考えた。そして、そこからあらためて、かわりにいま書かれるべき言葉とは何かを徹底的に考えた。本書がそのように書かれたテキストであることを、一瞬でも忘れてはならない。

だからこそ、この記録は、「その日」からは書き起こされない。「その日」以来、作家は”神隠しの時間”のなかにいたという。空間的にではなく、時間的な意味で「閉じ込められていた」のだ、と。”神隠しの時間”という「閉域」のなかで、時間的に行きつ戻りつした(装丁に穿たれたナンバリングはその「動き」を示している)作家の行動記録という意味で、本書の前半は「ノンフィクション」——「小説(フィクション)」ならざる散文——だといっていい。もちろん古川日出男には、すでに『ノン+フィクション』という「作品」がある。『ドッグマザー』のプロジェクトを中断し(それは放擲されたわけではないだろう)、リハビリテーションとして、あるいは迂回路としてこの本が書かれた理由のひとつに、『ノン+フィクション』という「作品」を書くことで古川日出男が獲得した、ひそかな自信がなかったとは思えない。

小説家にとって——というより「生み出されてしまった小説」にとって、といったほうが正確だが——「事実」と「フィクション」との間にある境など、いつでも踏み越えるられるものだ。ただしそれは、小説家という存在においては、倫理上、「こちら側からあちら側に向かって」ではなく、「あちら側からこちら側に向けて」踏み破られるべきだ。なぜなら作家が最終的に責任をもつべきは、現実の社会に対してではなく、生み出した作品とその世界に対してだから。

あちら側からこちら側へと荒々しく踏み越えてくるもの、場合によっては逃れてくるものさえを受け止めること。作家自身がそのことを受け入れた結果、この本は、小説を書くことを断念した小説家の”神隠しの時間”における焦燥を綴った「ノンフィクション」から、ただ「小説」としか名付けようのないものへと変容する。『聖家族』のなかで、「あの場所」において異界に消え去った狗塚牛一郎が、「ノンフィクション」として書かれてきたはずの散文に介入し、自らの物語を語りはじめるのも、そのように考えればごく当然のことなのだ。

震災という過酷な現実を前に、文学にいったいなにができるか、などという虚偽の問いは、この散文のなかでは一切問われない。その答えは自明だからだ。もしそうでなかったら、古川日出男はこの文章で動物たちについてここまで書いたはずがない。絶対にそれを「読む」ことがないはずの対象——イヌ、ネコ、ウシ、ヒツジ、ウマ、そしてあらゆる種族の死者たち——に向けて、この本に収められた文章は書かれている。
(2400字)

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