いとうせいこう『想像ラジオ』書評

町を見下ろす小山に生えた高い杉の木の頂点に、仰向けに引っかかったまま首を仰け反らせ、町を逆さまに見ている男がいる。

赤いヤッケを着たその男は、ノアの「方舟」にちなんだDJアークという名を持ち、聴き手の想像力のなかでオンエアされるラジオ番組を、「あの日」以来、木の上から送り続けている。なぜ、彼はそのような場所にいるのか——。

男は「あの日」の記憶をすっかり失っているが、リスナーたちとの交信によって、欠落は少しずつ埋められていく。不特定多数のリスナーと交信をしつつも、彼には本当に語りかけたい相手がいる。だがその相手に声はまだ届いていない。

いとうせいこうの16年ぶりの小説作品である本書は、このように始まる。本作では「ラジオ」として表現されているが、いとうが震災後に実際にツイッター上で行った、「想像上の曲をかけるDJプレイ」の体験が色濃く反映されている。しかしこの小説は、その行為を単純に物語に落とし込んだものではない。

かつてジョン・レノンが「想像せよ(イマジン)」と歌ったとき、既成観念を脱ぎ捨てた先にたち現れる、平明でクリアな世界がユートビアとして想定されていた。つまり「想像」には、基本的に正の価値が付与されていた。だが東日本大震災を経て、「想像」の意味は大きく変質してしまった。あるいはここで、アドルノの有名な「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という言葉を連想する人もいるかもしれない。

DJアークの視点で語られる奇数章の間に、作家Sの視点からなる偶数章が差し挟まれ、第二章でSはボランティア活動のために入った別々の被災地で、「樹上の人」の存在を知らされる。だが視覚的なイメージこそ強く喚起されるものの、その「声」は、Sにはまったく聞こえてこない。

被災者の現実には、傍観者にはけっして「想像しえないこと」あるいは「想像すべきでないこと」が存在する。それでもなお、小説家が想像力によって作品を生み出そうとするなら、そのことの根拠が問われざるをえない。そのことに本書の作者は自覚的である。

第二章で被災地でのボランティア活動からの帰途、Sに同行した一人の青年は、死者をめぐる心の領域に部外者が踏み込む「甘い想像」は傲慢だと語る。他方、別の青年は死者の声に耳を澄ますことは誰も禁止できない、と反論する。この問答における後者の立場こそ、「あの日」以後にフィクションを書くうえで、いとう自身が逡巡の末に選び取った倫理なのだ。

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