清志郎に捧ぐ〜「大衆」の時代の終りに

2009年の5月9日、青山葬儀所で行われた忌野清志郎の「ロック葬」には、4万人を超える弔問客が訪れた。私もその一人として、周辺の歩道を迂回しながらすすむ長い列に加わった。清志郎の葬儀に集まった人たちの姿をみて、これだけ大勢の人が路上を埋める光景を目の当たりにするのは生まれて初めてのことだと気づいた。

誤解を恐れずに言えば、そこには、言葉のもっとも普遍的な意味での「大衆」――あるいはその具体的な現れとしての「群衆」がいた。祭壇に辿りつくまでの約4時間は、満月の夜空のもと、平和なデモ行進でもしているような不思議な気分だった。

忌野清志郎の音楽は多くの人に愛された。彼が歌い続けたのは、まぎれもなく最良の「ポップミュージック」だった。にもかかわらず、私は彼の音楽を「大衆音楽」と呼ぶことにはためらいがある。だからこそ、彼の葬儀に集まった人たちの、「大衆」としか呼びようのない、あまりにも普通な佇まいに、静かな衝撃を受けたのだった。

たしかに「ポップミュージック」を「ポピュラーミュージック」とイコールとみなし、字義通りに訳せば、「大衆音楽」になる。しかし「ポップミュージック」を「大衆音楽」と単純に訳したり、あるいは「ポップカルチャー」を「大衆文化」と訳してしまうと、どうしても収まりのわるい部分が残ってしまう。「大衆」という古い言葉の喚起するイメージと、「ポップ」という言葉の間にズレがあるからだ。

いや、それもむしろ「あった」と過去形で言うべきなのかもしれない。「Jポップ」という言葉が生まれて以後の日本のポップミュージックは、文字どおり「大衆」向け商品となってしまった感がある。そのことで、かつて「ポップ」なものがもっていた、ある種のきらびやかな感覚が失われたことは確かだ。

「大衆音楽」と「ポップミュージック」が、その本質を失わないまま幸福な等号で結ばれていた時代は、むしろ「Jポップ」以前の時代にある。それはいつ頃までだったかを思い出してみると、1989年の美空ひばりの死がひとつの転回点として思い浮かぶ。美空ひばりが亡くなった1989年に、「昭和」という時代も終りを迎えているが、たしかに「大衆」という言葉は昭和の匂いがする。

RCサクセションというバンドが活躍したのも、昭和の時代の終わりである。忌野清志郎の葬儀に集まった人々の数は、美空ひばりのときとほぼ等しかったという。亡くなる直前までショーマンシップを手放さず、一級のパフォーマンスを見せてくれた清志郎の佇まいは、確かに美空ひばりが体現していた「大衆性」と「ポップさ」の両立を思い出させてくれた。

しかし、いまや平成元年に生まれた世代が十代を終えようとしている。ポップカルチャーとの遭遇は少年少女時代に迎えるのが普通だとすれば、平成生まれ以後の子供たちが、世代を超えて共有できる「大衆文化」の記憶をもたないとしても少しも不思議ではない。

「普通の人々 common people」を意味する日本語の語彙には、「臣民」「人民」「国民」「民衆」「公衆」「大衆」などがある。これらのうち「臣民」「人民」「公衆」「民衆」は、いまではほとんど使われない。そして「大衆」も、そろそろ忘れ去られた言葉になりつつある。多くの人が集うさまを示す「衆」という言葉が、リアリティを失いつつあることは明らかだ。

common peopleをさす言葉として最もポピュラーなのは、いまならば「庶民」または「一般庶民」だろう。しかし、往々にして自己卑下として用いられることの多い「庶民」という言葉は、大勢の人間がひとつの場に集まり「群衆」となることで生み出される熱気の感覚を欠いている。

元号が変わるのと同時に、日本の社会から「群衆」とよぶべきの人々の姿が見失われていったのとは対照的に、世界史における「1989年」は「群衆」が大きな力を発揮した年だった。中国共産党体制を揺るがした天安門事件も、東西ベルリンを隔てていた「壁」の崩壊とそれに続く東欧革命も、「群衆」という存在を抜きに理解することはできない。そうしたなかで日本だけが、「群衆」という人間の集まりがもつ、集団的な力への感覚を失っていった。

もちろんそれは、日本が中国や東欧より一足先に、ポストモダンの時代を迎えたからだ、という風に説明することもできる。

ポストモダン化した社会からの「群衆」の退場は、CDが売れない、あるいは本や雑誌が売れないという話とも深いところで結びついている。どの文化的ジャンルでも、数少ない特定のタイトルのみが突出して売れ行きを伸ばし、その他の作品はごくわずか売れないという二極化構造が顕著に見られるが、インターネットの時代を背景に「ロングテール」(クリス・アンダーソン)という便利な言葉が生まれると、そのような二極化自体は、さして問題ではないと思われるようになった。

巨大な恐竜の「尾」のように長く伸びるニッチなマーケットを集積させることで、恐竜の頭の部分にあたる数少ないメガヒットに匹敵するだけの利益を生みうるという「ロングテール」言説には、たしかに奇妙な説得力がある。いまや「恐竜の頭」は、まったく存在感を失っている。人々が多様性を保ったままひとつの量を形成するという意味では、大衆の原義である「mass(塊)」という言葉より、恐竜の長い「尾」のほうが、ポストモダンの時代においては比喩としてはるかにふさわしいのかもしれない。

「大衆」の時代の終りに、「リトル・ピープル」はどこにいる?

平成時代の折り返し地点を、阪神淡路大震災の起きた1995年に置き、「95年以前/95年以後」で時代を区分する見方が、若い世代を中心にかなり定着している。平成年間の精神史を語る上では、この年の春に東京首都圏で起きたオウム真理教による「地下鉄サリン事件」も重要に違いないが、より大きな歴史的視野に立った場合、この年にマイクロソフト社が「ウィンドウズ95」を発売したのを契機に、インターネットにアクセスする人が急速に増えたことのほうがよほど大きな意味をもつだろう。

音楽産業や出版産業の市場規模がピークアウトを迎えたのも、ちょうど1995~96年にかけてのことだ。「大量生産・大量消費」という二十世紀的なシステムの「その後」を考えるべきであるにもかかわらず、「大量生産・大量消費」を前提としたシステムの生み出す商品を介してしか文化的リソースに接することができない階層が、日本にはいまも一定の規模で存在している。

出版業界に身を置いていると、「ベストセラーになる本を読んでいる人を自分の周りには一度も見たことがない」という話をよく聞く。「ブッシュに投票する人なんて周りに一人もいないよ」とうそぶくニューヨーカーのようなものだが、自分たちの業界が送り出している商品の消費者に対して、なんという傲慢な物言いだろうと思う。しかし、こうした物言いが流布しているのは出版業界だけではないはずだ。

斎藤美奈子が『趣味は読書。』で辛辣に述べたように、現代における「ベストセラー」商品の消費者が、じつはきわめて狭い閉鎖領域に囲い込まれた、一種の「マイノリティ」と呼ばれるべき人たちである可能性はきわめて高い。比喩的に表現するならば、二十世紀という「大量生産・大量消費」の時代を象徴する氷山の大半はすでに海に溶け出しているにもかかわらず、最後まで溶けずに残っている頑固な氷塊のようにして、いまなお「数百万」という単位の人々が、「二十世紀」の中にとり残されているのではないだろうか。

これらの「数百万人」の人々のことを、はたして現代の「大衆」と呼ぶべきだろうか。「量」を質や力に転換できない以上、彼らは決して「多数派」ではありえない。個々人としていかに少数派の悲哀を叫ぼうとも、数千部しか刷られない本、数千枚しかリリースされないCDを読み、聴くことで満足できる洗練された趣味をもつ人たちのほうこそ、総体としては社会の「多数派」といえるだろう。なぜなら彼らの多くは、メディア業界の中におり、あるいはその外部にいるとしても、みずから声を発する手段をもっているからだ。

インターネットをはじめとするメディア環境の激変によって、人々が「ものを言う」ためのコストは劇的に下がった。現代社会の真の多数派は、もはやサイレント・マジョリティであろうとはしない。こうした「ものを言う多数派」の外に、「もの言わぬ少数派」、つまりサイレント・マイノリティとしての「数百万人」の人々が存在する、というイメージは誤りだろうか。

「ベストセラーを買う」以外の現実的な選択肢をもたない人たちは、文化資本のみならず社会資本においても、少部数の本やCDを買う人より劣位に置かれていることは容易に想像できる。したがって文化的少数派を擁護する立場から「ベストセラー」とその消費者を批判する言説も、趣味や嗜好性が多様化し、それぞれが「タコツボ化」したポストモダン社会だから仕方がない、という(それ自体はごもっともな)説明も、現状認識としては説得力を欠くと言わざるをえない。百万単位で存在するにもかかわらず「マイノリティ」でしかないような、膨大な人々の存在を忘却しているからだ。

数年前に流行ったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉』という書物は、そのような忘却の典型である。グローバル化する世界における新しい権力主体としての〈帝国〉に対抗しうる潜勢力「マルチチュード(多数者)」の有資格者が、この本の読者であるような都市在住の知的労働者だとしたら、その対極にいるのが、現代的な「ベストセラー」の消費者としての「百万単位」の「もの言わぬ人々」だ。皮肉なことに、彼らの存在こそが二十世紀型の「大量生産・大量消費」システムをかろうじて延命させている。

2009年のベストセラーとなった村上春樹の『1Q84』は、みずからの依拠するシステムへの懐疑と自爆装置を抱えている不思議な小説である。この作品には「リトル・ピープル」と呼ばれる不気味な人々が登場するが、この言葉はあきらかに「大衆」という言葉を裏返したものだ。物語のなかで「リトル・ピープル」と戦う少女「ふかえり」が読字障害者でなければならず、彼女が心に思い描く物語を、「作家志望の予備校講師」が代筆した『空気さなぎ』という小説が、物語のなかでもベストセラーにならなければならないのは、彼女こそが現代における「サイレント・マイノリティ」の象徴だからだ。

村上春樹の小説は、宮崎駿の一連のアニメーションと並んで、日本の戦後ポップカルチャーが生んだ最良の成果だと私は考えている。そして村上春樹は『1Q84』で、「大衆」の時代が終わった後にも「ポップ」であることを手放さずに優れた作品を生みだすという困難に立ち向かっている。このような蛮勇によってしか、21世紀に「ポップカルチャー」は存続しえないだろう。

(初出:「ミュージック・マガジン」)

清志郎に捧ぐ〜「大衆」の時代の終りに」への1件のフィードバック

  1. 2009年に「ミュージック・マガジン」のために書いた文章の再録です。3/11以後の自分の考え方のベースがここにあると思ったので、清志郎の命日を迎えたのを契機に公開することにしました。

solar1964 への返信 コメントをキャンセル